概要
多様体 (manifold) とは、各点の近くでは と同じように見える空間のことである。球面・トーラス・射影空間・行列群・力学系の相空間・一般相対論の時空など、現代数学と物理学に現れる「曲がった空間」はほとんどすべて多様体であり、その上で微分積分学を展開するための言葉が本科目の内容である。
本科目では、まず の中の曲線と曲面という具体的な対象から出発する(第1章)。曲面のガウス曲率が曲面の内側の計量だけで決まるというガウスの驚異の定理は、「外側の空間を忘れて図形そのものを調べる」という発想を生み、これが抽象的な多様体の定義(第2章)につながる。続いて接空間とベクトル場(第3・4章)、微分形式(第5章)を導入し、多様体上の積分とストークスの定理(第6章)によって、微分積分学の基本定理・グリーンの定理・ガウスの発散定理・ストークスの定理がただ一つの公式
の特別な場合であることを見る。最後に、閉形式と完全形式のずれを測るド・ラーム・コホモロジー(第7章)を導入し、微分形式という解析的な道具から空間の位相的な不変量が取り出せることを示す。
多様体論は、リーマン幾何学・リー群論・代数的位相幾何学・リーマン面・偏微分方程式論・代数幾何学のすべての土台であり、学部後半から大学院の幾何学系科目に進むための必修科目である。
前提知識
- 微分積分学:第7章 多変数関数の微分、第8章 逆関数定理と陰関数定理、第9章 重積分、第10章 ベクトル解析。特に逆関数定理と重積分の変数変換公式は繰り返し使う。
- 線形代数:第3章 線形写像(双対空間)、第4章 行列式、第9章 多重線形代数(テンソル積・外積代数)。
- 集合と位相:第2章〜第6章(位相空間・商空間・ハウスドルフ性と第二可算性・コンパクト性・連結性)。
- 微分方程式:第2章 解の存在と一意性 の主張(第4章で使う)。並行して学んでもよい。
到達目標
- [ ] 曲線の曲率・捩率、曲面の第一・第二基本形式とガウス曲率・平均曲率を計算できる
- [ ] ガウスの驚異の定理とガウス–ボネの定理の主張と意味を説明できる
- [ ] 多様体の定義を正確に述べ、球面・射影空間・積多様体・行列群が多様体であることを座標変換の計算で示せる
- [ ] 隆起関数と 1 の分割を構成し、局所的な構成を大域化する議論に使える
- [ ] 接ベクトルを導分として定義し、局所座標での計算(座標基底・ヤコビ行列)と行き来できる
- [ ] 階数定理と正則値定理を証明し、部分多様体の判定に使える
- [ ] ベクトル場のフロー・リー括弧・リー微分を計算でき、フロベニウスの定理を説明できる
- [ ] 微分形式のウェッジ積・外微分・引き戻し・内部積・リー微分を計算でき、カルタンの公式を使える
- [ ] 向き付けられた多様体上で微分形式を積分し、ストークスの定理を証明して古典的なベクトル解析の定理を導ける
- [ ] ド・ラーム・コホモロジーを、ポアンカレの補題・ホモトピー不変性・マイヤー–ヴィートリス完全列を用いて計算できる
- [ ] 写像度を用いて毛玉の定理などの位相的な応用を証明できる
章立て
- 第1章 曲線と曲面の微分幾何 — 平面曲線・空間曲線の曲率と捩率、フレネ–セレの公式。曲面の第一・第二基本形式、ガウス曲率、驚異の定理、ガウス–ボネの定理。
- 第2章 多様体の定義と例 — 位相多様体と滑らかな構造、球面・射影空間・積多様体などの例、滑らかな写像と微分同相、隆起関数と 1 の分割、異種球面。
- 第3章 接空間と微分 — 導分としての接ベクトルと曲線による接ベクトル、接写像と連鎖律、接束、階数定理、正則値定理と部分多様体、ホイットニーの埋め込み定理。
- 第4章 ベクトル場とフロー — ベクトル場と積分曲線、フロー、リー括弧とリー微分、可換なフロー、フロベニウスの定理、リー群とリー環への入口。
- 第5章 微分形式 — 余接空間と 1 形式、テンソル場、 形式とウェッジ積、外微分、引き戻し、内部積、カルタンの公式、閉形式と完全形式、ベクトル解析との対応。
- 第6章 向き・積分・ストークスの定理 — 向き付け、境界付き多様体、微分形式の積分、ストークスの定理、グリーン・ガウス・ストークスの定理、体積形式と発散定理、ブラウアーの不動点定理。
- 第7章 ド・ラーム・コホモロジー — 定義と基本例、ホモトピー不変性とポアンカレの補題、マイヤー–ヴィートリス完全列、球面・トーラスの計算、写像度と毛玉の定理、ポアンカレ双対性とド・ラームの定理。
第1章は古典微分幾何であり、第2章以降とはほぼ独立に読める(第2章以降を先に読み、第1章を具体例の宝庫として後から読んでもよい)。第2章から第7章はこの順に依存している。第4章のうちフロベニウスの定理(4.6 節)とリー群(4.7 節)は、第5〜7章を読むのに必須ではない。
学習時間の目安と進め方
- 目安は 1 章あたり 12〜18 時間、全体で 100 時間前後(演習問題を含む)。
- 抽象的な定義が出てきたら、必ず局所座標で書き下し、・球面・トーラス・射影空間の例で確かめること。本科目の本文もその方針で書かれている。多様体論の難しさの大半は「定義が座標によらないこと」と「座標で計算できること」の往復に慣れることにある。
- 図の代わりに、本文では状況を言葉と式で描写している。読みながら自分で図を描くと理解が大きく進む。
- 第3章の階数定理・正則値定理、第6章のストークスの定理、第7章のマイヤー–ヴィートリス完全列は、大学院入試でも頻出である。証明を何も見ずに再現できるまで練習するとよい。
- 総合演習 20-problems 第6章 に、本科目と位相幾何学を横断する問題がある。
本科目の記法の約束
- 多様体は特に断らない限りハウスドルフかつ第二可算とし、「滑らか」は 級を意味する(NOTATION.md)。
- 座標近傍を 、 と書き、座標の添字は上につける。和の記号は省略しない(アインシュタインの縮約規約は使わない)。
- 滑らかな写像 の点 での微分を と書く( や と書く本もある)。
- ウェッジ積は行列式規約 に従う(第5章)。
- ド・ラーム・コホモロジーを 、略して と書く。
参考文献
日本語
- 松本幸夫『多様体の基礎』(東京大学出版会)— 日本語の標準的な教科書。接空間・はめ込み・サードの定理・埋め込みまでを丁寧に証明する。第2・3章の副読本に最適。
- 坪井俊『幾何学I 多様体入門』(東京大学出版会)— 多様体の基礎を現代的な視点で簡潔にまとめる。
- 坪井俊『幾何学III 微分形式』(東京大学出版会)— 微分形式・ストークスの定理・ド・ラーム・コホモロジーの教科書。第5〜7章に対応する。
- 小林昭七『曲線と曲面の微分幾何』(裳華房)— 古典微分幾何の定番。第1章の内容を例とともに詳しく学べる。
- 森田茂之『微分形式の幾何学』(岩波書店)— 微分形式からド・ラーム理論・特性類まで。第7章の先に進むときに。
英語
- J. M. Lee, Introduction to Smooth Manifolds (Springer) — 最も網羅的で丁寧な教科書。本科目の第2〜7章はおおむねこの本の流儀(導分としての接ベクトル、行列式規約)に従っている。
- L. W. Tu, An Introduction to Manifolds (Springer) — 初学者向けに具体的な計算から始める読みやすい入門書。
- M. P. do Carmo, Differential Geometry of Curves and Surfaces (Prentice Hall / Dover) — 曲線と曲面の標準的教科書。ガウス–ボネの定理の証明が詳しい。
- R. Bott, L. W. Tu, Differential Forms in Algebraic Topology (Springer) — ド・ラーム・コホモロジー、マイヤー–ヴィートリスの議論、ポアンカレ双対性を扱う名著。第7章の続きとして。
次に学ぶもの
- 17-riemannian-geometry リーマン幾何学 — 多様体に計量を入れ、接続・測地線・曲率を調べる。第1章のガウス曲率と第6章の体積形式が出発点になる。
- 16-lie-groups-representations リー群と表現論 — 第4章で導入したリー群とリー環の理論。
- 09-algebraic-topology 位相幾何学 — 特異ホモロジー・コホモロジーとポアンカレ双対性。第7章のド・ラーム・コホモロジーと比較するとよい。
- 19-riemann-surfaces リーマン面と保型形式 — 複素 1 次元の多様体。
- 18-pde 偏微分方程式論 — 多様体上の解析(ホッジ理論など)に必要な偏微分方程式の理論。